【DQ3】愛し貴方を纏う

◆キャラクター紹介◆

チャイ(賢者♀)…20代前半の元僧侶。清楚でふつうの性格。まもの使いのシューイに役割を取られつつあることに焦り、一度揉めたことがある。だが仲直りしたことをきっかけに、彼に想いを寄せるようになった。自分の中で考え込んでしまう癖があり、そんなとき仲間たちはそっとしておいてくれる。

アルス(勇者♂)…16歳の勇者。ちょっぴりわがままだが、時に負けず嫌い。年上の仲間たちに気を遣いながらも、勇者としての責任をしっかり果たすべく奮闘中。長い旅を経て、少しずつしっかりしてきた。歳が近いため、チャイと仲が良い。チャイが唯一タメぐちで接する相手。

グロリア(戦士♀)…30代半ばの戦士。サバサバしていてぬけめがない。パーティ最年長のため、なにかと頼られることも多いが、本人はそれがうれしい様子。お菓子作りと料理が得意で、チャイとアルスを可愛がっている。酒がそこそこ強いので、ルイーダ時代からシューイとは飲み友達だった。

シューイ(まもの使い♂)…30代前半のまもの使い。ひょうきんなロマンチスト。パーティのムードメーカーだがスケベ野郎。よくぱふぱふ屋に行くため、チャイとグロリアに睨まれている。だが実際は気遣いの鬼ともいえる性格で、ひょうきんな部分は仮面に近い。あまり自分の出自を話したがらない。10歳差というチャイとの年齢差を密かに気にしている。




行商人が薬草や毒消し草とともに並べて見せたのは、掌より少し大きいくらいの棒。
物によって色が違ったり飾りがついていたりと、どうやら装飾品の一種らしい。

深い紅を湛えた艶やかな軸と、吸い込まれそうになるほど美しい蜂蜜色の石。
チャイは一瞬にして心を奪われ、その髪飾りから目が離せなかった。

ここは四方を海に囲まれた国、ジパング。
ダーマより東方、オーブの情報を求め辿り着いたこの地は、アルスたちが見たこともないようなもので溢れていた。

太くがっしりした幹の先で、たおやかに揺れる薄桃色の花。
水を流し込んだ畑に規則正しく植えられた草。
国の主が住まう屋敷、そこに至るまでの道にいくつも並んだ朱塗りの門。

道ゆく人々が身につけている衣服も独特な形のものだったが、この国ではむしろアルスたちの服装のほうが異端だ。
買い物ひとつするだけだというのに、何度「ガイコクジン」と声をかけられてきたことだろうか。

「お嬢さん、それが気になるんですか?」

同じく「ガイコクジン」であるらしい行商人の言葉に、はいと答えるチャイ。
すると行商人は紅の棒を手に取り、アルスの後方に控えていた彼女の近くにやってきた。

「これはかんざしと言いましてね、ジパングが発祥の髪飾りなんです。
 先ほどここで仕入れて次の街で売ろうとしていたんですが、お客さんたちは運が良かったですねぇ。
 どれどれ、お嬢さんくらいの長さだったら綺麗にまとまるんじゃないかな?」

そう言うと、行商人はチャイの髪を何度か手櫛で梳く。
かさついた手が無遠慮に項を往復し、チャイは思わず身震いしてしまった。
それに気づいているのかいないのか、行商人はチャイの髪を持ち上げると、簪でくるりと結い上げる。

乙女の白い項と亜麻色の髪に、簪の紅がよく映えていた。

可愛いじゃない、似合うよ、グロリアとアルスが続けて感想を言う。
シューイも口を開きかけたが、それを大袈裟な拍手と猫撫で声が遮った。

「うん、よーくお似合いですよ!
 簪には魔除けの意味も込められていましてね。
 ほら、先が細くなっているでしょう?
 髪がまとめやすいのはもちろんですが、古来よりこの国ではこういう形のものに邪悪を祓う力があると言われているんです。
 どうでしょう、長い旅のお供に?
 お嬢さんだけじゃなく、お兄さん方もお守り代わりに持ち歩いてみては?
 また、男性から女性に簪を贈ることは『貴女を一生お守りします』『私の愛を受け取ってください』なんて意味もあるそうで、恋人への贈り物にも……」

早口で捲し立てる行商人に、先ほどまで盛り上がっていたアルスたちも黙るしかない。
それほど売り込みの圧が強かったのだ。

自分が簪を気に留めたせいで。
そう思ったチャイは、ひどく罪悪感を覚えた。

「すみません、これお返しします」

彼女は行商人の言葉を遮ると、髪に挿さった簪を外そうとした。
しかし、どのように留まっているのか構造がよく分からない。

何度か後頭部を探ったところで、後方からシューイが小さく耳打ちしてきた。

「ごめん、ちょっと触るね」

えっ、と思ったその瞬間、支えを失い解放された髪がぱらりと広がる。
チャイが振り返ると、深い紅の細布で覆われた大きな手が簪をつまんでいた。

「買わなくていいの? 気になってるんでしょ」

解いてから言うのもなんだけどさ、と言いながらこちらを見るシューイに、チャイは身体を強張らせた。
吸い込まれそうなほど美しい蜂蜜色に見つめられると、目が離せなくなってしまう。

「いえ……髪をまとめるなら、いつも使っている紐がありますし」

高鳴る鼓動をなんとか抑えようと、チャイは笑顔を作る。
シューイもそれ以上何かを言うことはなく、右手に持っていた簪を行商人に返すのだった。

彼らは予定通りの買い物を済ませると、そそくさとその場を後にした。

チャイは最後に、簪を仕舞おうとしている行商人をちらりと見遣る。
彼女の背中まで伸びた癖毛が、何かを求めるように小さく舞った。





「あれ、シュー兄は?」

「さぁ、特に行き先は聞いてないけど。
 どうせ『情報収集』でしょ」

ため息をつきながら言うグロリアに、アルスはふぅん、とだけ返す。

風呂上がりの彼は、部屋の奥で茶を楽しむチャイのもとへ向かった。
彼女もすでに入浴を済ませており、乾いたばかりの髪を紐でまとめている。

「何飲んでるんだ?」

「ここのご主人がくれた紅茶。
 このあたり、紅茶の名産地なんだって。
 アルスくんも飲む?」

「飲む!」

ポルトガにある宿屋の一室、そこにいるのはアルスとグロリア、そしてチャイの3人。
ここにいないまもの使いは、夕食を終えるとすぐに宿屋を出ていった。

一行がジパングを出たのは、すでに日が傾きかけた時間帯。
野営の準備をするには遅すぎると判断したため、ルーラでいったんポルトガへと戻ることにしたのだ。

シューイがふらりと夜の街に消えるのは、今となっては珍しくもない光景である。
4人のうち誰よりも酒に強く聞き上手なため、酒場での情報収集は一貫して彼の役目だ。

が、時折別の場所で「情報収集」をしていることもあるらしい。
そう、ぱふぱふ屋である。

最年長のグロリアはともかく、年若いアルスやチャイも、彼が石鹸の香りを纏わせて帰ってくる理由がわからないほど子どもではない。
あんの助平野郎、と玻璃の坏を傾けながらグロリアが呟いた瞬間、宿屋の入り口に見慣れた人影が現れる。

「ただいま〜」

にこにこ顔のシューイだ。

「お帰りなさい。
 それでどうだったの、今日の成果は」

「ちょっとグロリア姐さ〜ん、オレがぱふぱふに行ったと思ってるんでしょ?
 違うって〜、買い物だよ買い物」

彼はそう言って、小さな机に向かい合って茶を飲んでいたアルスとチャイに笑いかける。

「シュー兄のけづくろいタイムやるよ〜。
 風呂だけ済ませちゃうから、ちょっと待ってて」

その言葉に、ふたりは目を輝かせた。

「シュー兄のけづくろいタイム」とは、旅を始めたばかりの頃にシューイが企画したものだ。
彼の特技である「けづくろい」を仲間たちに施し、ついでに親睦を深めようというのが目的である。
グロリアは頑なに参加しようとしなかったが。

心地良いけづくろいを受けられること、そしてその間シューイと話すことが、アルスとチャイにとっては楽しみのひとつであった。
そのため定期開催をしていたのだが、バハラタでの一件を解決してからというもの、なぜかシューイが声をかけることはなくなってしまった。

「久しぶりだよな〜。
 シュー兄、なんで最近声かけてくれなかったんだろ?」

「オーブの情報集めで忙しかったんじゃないかな」

体温がわずかに上昇しているのを、目の前の少年に悟られてはいないだろうか。

シューイのけづくろいを受け、一対一で話す。
少年とは違い、長身のまもの使いに「仲間」以上の感情を抱く彼女にとって、それは特別な意味をもつのである。

彼の低く掠れがちな声を、大きな温かい手を、心安らぐ匂いを、白銀の睫毛に縁取られた琥珀を。
その時間は世界でただひとり、チャイだけが独り占めできるのだ。

入浴を済ませたシューイが、再びアルスたちの前に現れる。

「どっちからにする?」

アルスとチャイを交互に見ながら言う彼に対して、

「ちょっと荷物の確認をしてきます。
 アルスくん、先にやってもらいなよ」

と、わずかに上ずった声で乙女は言った。

「そう? じゃあ、お言葉に甘えて!」

聞いてよシュー兄、と盛り上がるアルスたちを横目に、チャイは部屋を出ていく。

現在アルスたちが集まっているのは男性陣の部屋であり、彼女が向かったのはもうひとつ、女性陣の部屋。
寝台の脇に置いた荷物から布巾着を取り出す。

そこには化粧品や衛生用品がいくつか入っているが、白い手がつまんだのは小さな円筒形の器。
唇の乾燥を防ぐために使う軟膏だ。
薄い薔薇色をしたそれを薬指の先に掬い取り、唇に塗り広げる。

自分の姿を鏡で確認してから、彼女はアルスたちがいる部屋に戻っていった。

「お、ちょうどよかった。こっちにおいで」

シューイが手招きをする。
鼓動が速くなっていくことに気づかれないよう気をつけながら、チャイは彼に近づいた。

「よろしくお願いします」

ふたつ置かれた寝台のうち、奥の壁に面しているものにふたりで腰掛ける。
チャイは縁に、シューイは真ん中に。

「これ、解くね」

そう言って、彼はチャイの髪を括っていた紐をそっと外す。
長い髪とともに石鹸の香りが甘く広がり、シューイは目を細めた。

彼の手にした櫛が、乙女の細い髪を丁寧に梳いていく。
少し遠慮がちに触れる手の温かさに、チャイの口元が自然に緩んだ。

艶やかに彩った唇は、彼に見てほしいから。
でも今は、見られなくて良かったと心から思う。

「はい、おしまい。
 どこか気持ち悪いところなーい?」

「いえ、大丈夫です。ありがとうございました」

もっと触れてほしい。
彼の体温を感じていたい。

とてもそんなことは言えず、チャイは体を捻り頭を下げる。

寝台の上で胡座をかいているシューイの足元には、先ほどまでチャイの髪を束ねていた紐。
それを取ろうとしたところで、低く掠れた声に遮られた。

「あ、ちょっと待って」

声の主は懐から紙袋を取り出す。
その中から顔を覗かせたのは、数刻前にチャイが心奪われた簪だった。

「これ、つけてみてもいいかな?」

大きな手で紅の簪をつまみ、シューイにしては珍しく淀みを含ませて言う。

「どうして……」

「んふふ、完全にオレの自己満足。
 チャイちゃんにすごい似合ってたからさ、ひとっ飛びして買ってきちゃった。
 お願い、つけてるところまた見せて!
 おじさんに目の保養させてよぉ〜」

急に戯けた口調になる彼だが、チャイはすぐに真意を悟った。

(買ってきてくれたんだ、私のために)

気を遣わせてしまったことが申し訳なくて、彼女は再び頭を下げる。

「すみません、お金払いますっ」

「いやいや気にしないで、オレの自己満足なんだってば。
 お金はいいから時々これつけてよ、ね?
 そうしてくれたら、3回は飯のおかわりができちゃいそうだよ〜」

そのとき、チャイの慌てた様子に気づいたアルスがやってきた。

「どうしたんだ?」

彼はシューイの手におさまった簪に気づくと、それをまじまじと見ながら言った。

「あれ、さっきの髪飾りじゃん。
 いつの間に買ってたんだよ?」

「チャイちゃんじゃなくて、オレが買ってきたの。
 すっごくいい色だったし、チャイちゃんに似合ってたからさ〜。
 んで、またつけてるところ見せて〜って頭下げてるところ」

先ほどとは打って変わり、高く大きな声で話すシューイ。

「なに、アルスくんも欲しかったの?
 お守りになるって話だったもんね〜。
 可愛いアルスくんのために、シュー兄がもうひとっ走りして買ってきてあげよう!」

「いや、別にそういうわけじゃ」

盛り上がり始めた男性陣を止めたのは、グロリアの声だった。

「アルス、剣のお手入れしちゃうからあなたのも持ってきてちょうだい」

はぁいと声を返すと、アルスはシューイたちのもとを離れていく。

ふたりの間に静寂が訪れる。
何を切り出すべきかがわからず、チャイはシューイに背を向けたまま。

「……つけてもいい?」

背後から降ってきた静かな声に、心臓がひとつ大きく脈打った。

「はい」

柔らかな熱が乙女の首元を攫っていく。
彼の節張った太い指が心地よく、チャイは思わず息を吐いた。

髪を捻じるときに、簪を挿し込むときに、彼は痛くないかと聞いてくる。
その優しさがチャイの胸をくすぐった。

「でーきた。チャイちゃん、こっち向いて」

言われた通りに振り返ると、蛋白石のように揺らめく蜂蜜色があった。

(……あ)

この瞳を、乙女は知っている。

(あのときと、同じ)

もともとは僧侶の職に就いていた彼女が、葛藤を経て賢者への転職を果たしたとき。
まもの使いの青年は自身の瞳に、神に選ばれし聖女の碧色を映した。

そこに宿る熱は今、同じ揺らめきを湛え彼女へと降り注ぐ。

自惚れても良いのだろうか。
彼の気持ちが、ほんの少しでもこちらに向いていると。
彼の瞳から零れる、受け止めきれないほどの情熱が答なのだと。

「あ、やっぱり似合う〜!
 ふたりとも見て、良くない?」

しかしシューイは、すぐに朗らかな笑顔を作る。
仲間たちと話すときと同じ、特別でもなんでもない顔だ。

彼の声に、ともに剣の手入れをしていたアルスとグロリアが振り返った。

「うん、可愛いと思うよ!」

「すっきりしてていいじゃない。
 いつもの紐じゃなくて、これからはそっちにしたら?」

シューイがいつもの調子に戻ったことを少しだけ残念に思いながらも、チャイは彼に礼を言う。

「でも私、つけ方がわからないです」

「見た目のわりに簡単だよ、教えようか?」

乙女が首を縦に振ると、シューイは触るねとひと声かけてから髪を解いた。

「まず髪をくるくる〜って捻って、簪をこっちから……」

青年はそっとチャイの手を取りながら、簪の使い方を教えてくれる。

普段シューイが手に巻いている細布も、チャイが嵌めている長手袋も今はない。
ふたまわりほども大きな手に包まれ、心臓が飛び出しやしないかと心配になる。

「で、あとはグッてやるだけ。できたかな?」

チャイは簪から手を離すが、ぱさりという音とともに髪が広がる。
役目を果たせなかった簪が、胡座をかいたシューイの足元に落ちてきた。

「そんなぁ……」

「まぁ、たしかにちょっとコツは必要かもね。
 もともとはオレのわがままで買ってきたんだし、つけてほしいときはオレのところにおいでよ」

シューイはそう言って、チャイに簪を手渡す。

「いいんですか?」

「いつでも大歓迎だよ〜」

にこにこ顔を向けられたチャイは、手渡された簪をそっと握りしめた。

艶やかな紅の軸に、灯りを受けて淡く煌めく蜂蜜色の石。

「……それじゃあ」

見ているだけで胸が締め付けられそうになるその色を、愛しいその色を、少しでも長く身につけていたい。

「もう一度、つけてほしいです」

今度は自分から、シューイの目をじっと見つめた。

彼と触れ合えるこの時間が、少しでも長く続くように。
今にも堰を切ってしまいそうなこの感情が、少しでも彼に伝わるように。

シューイの瞳が、少しずつ熱を取り戻していく。
それは陽炎のようにゆらりと揺蕩い、銀色の睫毛がすっと伏せられた。

「うん」

後ろ向いて、というシューイの声に従い、チャイは彼に背を向ける。

「……いい?」

「はい」

わずかに震える指が、チャイの小さな両耳を掠めていく。
その熱を零さないよう、乙女は瞳を閉じた。





「ちょっと早いけど、このへんで野営にしようか」

先頭を歩いていたアルスの声に、グロリアたちは歩を止めた。
そこは鬱蒼と生い茂る木々がわずかに開けており、4人が横になるにはじゅうぶんな場所だ。

ジパングを離れて数ヶ月。
各地に散らばるオーブの情報を求め、アルスたちは様々な場所を周っていた。

現在手元にあるオーブは、パープルオーブとグリーンオーブのふたつ。

次の目的地は、この大陸のどこかにあるという海賊たちの住処だ。
船を降りてずいぶんと歩いたが、まだ辿り着けそうにはない。

「あっちに川がありましたよね。
 私、水を汲んできます」

「ちょっと歩くわよ?
 私も一緒に行きましょうか」

「いえ、ひとりで大丈夫ですよ。
 念のため武器も持っていきますし!」

大きな革袋とともに理力の杖を握りしめ、チャイは歩き出す。
その後ろ姿にきらりと光るのは、彼女が大切にしている紅の簪。

シューイからこの簪を贈られて以来、彼との関係に大きな変化はない。
それでも、簪を通して彼に触れられるだけでチャイは幸せだった。

今や、毎朝シューイに髪をまとめてもらうことが彼女の日課になっている。
その様子をアルスやグロリアが微笑ましく眺めていることに、チャイは未だ気づかない。

(……やっぱりグロリアさんにも来てもらえばよかったかな)

革袋いっぱいに水を汲んだところで、彼女は少しだけ後悔する。

旅を始めた頃とは比べ物にならないほど、体力はついたと思う。
そうは言っても、重いものは重いのだ。

幸い、ここに来るまで魔物に遭遇することはなかった。
遭遇したとしても、チャイは理力の杖を手にしている。

自らの魔力を糧とし、力強い攻撃を可能にする。
ポルトガの灯台にある宝箱に収められていたそれは、力の弱い彼女にとって心強いものだった。

「よいしょ……っと」

水の入った革袋を背負い、歩き出そうとした瞬間だった。

木の葉が激しく揺れ、擦れる音。

「!」

チャイは汲んだばかりの水が溢れないよう、そっと革袋を置いた。
理力の杖を強く握りしめ、辺りを注意深く窺う。

(何かいる……!)

がさがさという音の合間に聞こえる唸り声。
ひときわ大きな音が聞こえたかと思うと、前方に大きな影が躍り出た。

グリズリーだ。
数は3匹。

杖を持ってきてよかったと思いながら、チャイは素早く詠唱を始める。
地底から激しい炎が噴き上がり、グリズリーたちの大きな体躯を包み込んだ。

肉の焼け焦げる嫌な臭いが立ち込める。
それに顔をしかめながらも、チャイは警戒を解くことはしない。

視界を染める赤色がおさまると、そこには変わり果てた魔物の姿があった。
身体の一部はすでに炭と化し、ぴくりとも動かない。

(もう、大丈夫……?)

背後をもう一度確認しようとほんの一瞬、後ろに首を傾けたそのときだった。
斃れたと思っていたグリズリーのうち1匹が、咆哮を上げて突進してきたのだ。

チャイの華奢な身体が吹っ飛んだ。

背中を思い切り打ち付けるや否や、腹から太腿にかけて強く圧迫される。
グリズリーが伸し掛かってきたのだと理解したときには、真っ黒な爪が眼前に迫っていた。

「ひっ」

左手の武器で、咄嗟に攻撃を防ごうとする。
だが、そこに理力の杖はなかった。

(うそっ……!)

杖の行方を確かめることもできないまま、グリズリーの鋭い爪がチャイの長手袋を貫いた。
それだけでは致命傷にならなかったものの、下腕に走る激しい痛みに悶絶する。

グリズリーが大きく唸り、逆の腕を振り上げた。

呪文の詠唱も間に合わない。

チャイにできるのは、傷ついた細い腕で身体を守ることだけだった。
左上から振り下ろされた爪が、彼女の右肘から左胸にかけて深々と切り裂く。

「あああああっ!」

灼けるような痛みが迸り、チャイは左胸を握るように強く押さえた。

グリズリーの身体は重く、彼女がどれだけ身を捩っても逃げられない。
相手も手負いだというのに、どこにそんな力があるのだろうかと回らない頭で思う。
今度こそ眼前の獲物にとどめを刺すべく、猛獣の鋭い爪が再び輝いた。

チャイの純白の衣は、鮮やかな紅で染まっていく。
抵抗するために腕を上げることでさえ、今の彼女にはままならなかった。

しかし朦朧とした意識の中で、聖女は後頭部に手を回す。

震える左手に握りしめたのは、彼女の身体を染めるものとは違う清らかな紅。
想い人から贈られた簪だった。

左手に、今出せるだけの力をありったけ込める。
細く尖った先端が、グリズリーの右眼を貫いた。

ぐおおおおおああああああ!

猛獣は痛みに悶え、自らの大きな手で顔を覆う。
眼窩からは青黒い血液が溢れ出し、毛皮に覆われた腕を伝って乙女の腹を汚した。

自分でもわけのわからない声を上げながら、チャイは何度も何度も簪を振り下ろす。
もはや簪の先がどこにあるのか、役割を果たしているのか、それすら判断がつかなかった。

と、そのとき。

ひゅっと空を切る音と、何かを強く打ち据える音。
長い旅の中で聞き慣れた、まもの使いの鞭の音だった。

「チャイ!」

彼の引き攣った声と猛獣の断末魔が重なる。

大きな影がゆっくりこちらに倒れてきたかと思うと、それは鈍い音とともに横へと吹っ飛んだ。
赤毛の女戦士が、グリズリーを思い切り蹴飛ばしたのだ。

下腹部から太腿にかけての圧迫感はなくなったはずだが、感覚を失いつつある乙女の身体にはわからない。

(シューイさん、ごめんなさい)

いちばん顔が見たかった彼に、いちばん見られたくない姿を晒してしまった。
あれだけ大切にしていたはずの簪は今、紅い乙女の血と青黒い魔物の血に塗れ、弱々しく左手に握られている。

ふと、胸元に柔らかいものが触れた。

霞む目を凝らして見ると、彼女の上半身に毛皮の襟巻がかけられている。
シューイのものだ。
彼の爽やかな香りは、チャイの心を幸せで満たすはずのその香りは、鉄のような匂いと混ざって感じ取ることはできなかった。

少し遠くから、少年の詠唱が聞こえる。
チャイもよく知っている呪文だ。

翡翠の光がふわりと彼女の身体を撫で、深い傷を癒していった。
全身に走っていた激痛が、あっという間に消え失せる。

しかし、起き上がる力は欠片も残っていなかった。
聖女の清き衣が、濁った赤色で染まっているせいだ。
冷たくなった身体が元の熱を取り戻すには、相当な時間を要する。

「……かんざし」

ゆっくりと紡がれた声は、自分でも驚くほどか細く掠れている。
チャイが唇を動かしていることに気づいたシューイは、慌てて耳を彼女の口元に寄せた。

「よごしちゃいました」

乙女の意識はそこで途絶えた。





目を覚ますと、少し遠くによく知る天幕の色。

薄闇をぼんやりと照らす灯りが、ここがどこなのかをチャイに教えてくれた。

(あれ、私……)

魔物に襲われて大怪我を負い、そこから先の記憶はない。

そっと身体を起こすと、じわりと眼の前に黒い靄がかかる。
それがおさまる頃、彼女は寝間着を着ていることに気づいた。

顔も髪も身体も血塗れだったはずだが、その痕跡はどこにも見当たらない。

衣擦れの音が聞こえ、天幕の入り口が開いた。
奥から顔を出したのは、赤毛の女戦士。

「チャイ! よかった、気分はどう?」

グロリアは顔をぱっと輝かせ、未だ状況を理解できていない乙女へと駆け寄った。

尋ねると、どうやらチャイの身体を整えてくれたのは彼女らしい。
服の汚れも落としといたからね、と笑って言うグロリアに、チャイは頭を下げる。

「すみません、私が油断したばかりにご迷惑をおかけして」

「そんな……謝るのは私のほうよ。
 あのとき無理にでもついて行くべきだったわ。
 怖い思いをさせてごめんね」

女戦士はそっと乙女を抱きしめる。
細い身体を包み込む温かさに、チャイは思わず顔を綻ばせた。

「外にシューイがいるから、動けそうなら顔見せてあげて。
 あいつ、すごく心配してたのよ。
 チャイの顔見たら喜ぶと思うわ」

彼の名前を聞き、乙女の心臓が嫌な音を立てる。

あの紅の簪は今、チャイの手元にはない。
どこにあるのかもわからない。
あのとき失くしてしまったのか、それとも戻ってくるまでに落としてしまったのか。

(……私、シューイさんにどんな顔をして会えば)

自分のためを思って簪を贈ってくれた彼に、なんと謝れば良いのか見当がつかなかった。

しかし、彼は危なかったところを助けてくれたのだ。
礼を言わないのも不義理というものだろうと、チャイはそう考える。

重い足取りで、彼女は天幕の外へ出た。

あたりはすっかり暗く、空を見上げると下弦の月がこちらを見つめ返してくる。
月の位置からして、日付を超えたくらいの時間帯だろうか。

ふたつの天幕から少し離れた場所で、シューイは焚き火に照らされていた。
チャイが足を踏み出した瞬間、彼はすぐに顔を上げる。

「グロリア姐さんの声が聞こえたから、もしかしてと思ってた。
 よかった〜、もう起きて大丈夫なの?」

にこりと笑いかけてくるシューイに、チャイは小さく頭を下げた。

「はい、おかげさまで。
 助けてくださってありがとうございました」

「気にしなくていいんだよ〜。
 チャイちゃんが元気なら、それがいちばんなんだから」

彼の背後には、毛皮の襟巻きが吊られて干してある。
意識を失う直前に乙女の胸元を覆っていたはずのそれは、汚れひとつ見当たらない。

「アルスくんは?」

「向こうで寝てるよ。
 オレはちょうど今、姐さんと見張りを代わったとこ」

取り留めのない会話をしながら、チャイは簪のことをいつ切り出すべきか考えあぐねていた。
すると、シューイがこちらをじっと見つめていることに気づく。

「冷えちゃうでしょ、こっちに来なよ。
 ちょうどお湯を沸かしてるところだから、お茶かなにか淹れようか?」

「あ……えっと」

彼の近くに行きたい気持ちはもちろんある。
だが今は、なんとなくそれが躊躇われてしまう。

いつかは言わなければならないこと。

チャイはひとつ深呼吸をしてから、勇気を出してシューイの顔をまっすぐ見た。

「……ごめんなさい。
 いただいた簪、失くしてしまったみたいなんです」

本当にごめんなさい、と続ける彼女に、青年は右手に作った拳を左の掌でぽんと打つ。

「そっか、びっくりさせちゃったよね。
 実はオレが預かってたんだ。
 なくなったらいけないと思って」

彼は右手を懐に差し入れると、柔らかな手拭いを取り出した。
そこに包まれていたのは、あの紅の簪。

べったりと付着していた血液は、綺麗さっぱりなくなっている。
おそらくはシューイが洗ってくれたのだろう。
しかし、艶やかな軸にはところどころ大きな傷がつき、先端が欠けて短くなっていた。

お気に入りの品を、自らの手で変わり果てた姿にしてしまった。
贈り主の目の前で。

悲しみと罪悪感で、チャイの心が侵されていく。
いつしか彼女は想い人から目を逸らし、両手を強く握って俯いていた。

彼は、この簪を見て何を思うのだろうか。
贈り物を粗末に扱う奴なのだと、軽蔑されてしまったかもしれない。

「……この傷が、チャイちゃんを守ってくれた証なんだよね」

優しい声に、乙女は驚いて目を開く。
焚き火の灯りを受けて、柔らかに揺れる蜂蜜色がそこにはあった。

「簪は魔除けにもなるって、これを売ってたおじさんが言ってたでしょ?
 あれ、本当だったんだ」

焚き火にかけていた小鍋から、沸騰した湯が溢れ出す。
おっと、という声とともにシューイは慌てて簪を傍らに置く。

彼は小鍋を火から外し、ふたつ並べた木製の坏に熱湯を注ぎ入れた。
そこに不織布で包まれた茶葉をひとつずつ浮かべると、彼は焚き火を挟んで立つチャイに手招きをする。

「……おいで」

彼の瞳に、声色に、怒りや蔑みは微塵も感じられなかった。
そこから滲み出るのは優しさと、ほんの少しの切なさ。

聖女は吸い寄せられるように、青年のもとへと歩み寄る。
彼は大きな敷布に腰を下ろしていたが、チャイの身体が汚れないよう端に寄ってくれた。

先ほどシューイが置いた、手拭いに包まれた簪。
それを彼との間に挟むようにして、チャイも腰を下ろした。

「はい、熱いから気をつけてね」

「ありがとうございます」

取手のついた木製の坏がひとつ、小さな白い手に渡された。
紅茶はまだ淡い色をしている。

ぱちぱち、と火に焚べられた枝が爆ぜる音。
ふたりの空間をそれだけが包み込む。

高鳴る心臓を誤魔化すように、乙女は坏に口をつけた。
ようやく茶葉が開いてきたらしく、芳醇な香りが彼女の鼻腔を刺激する。

「……シューイさん」

「ん?」

「せっかくいただいた簪、使えなくなってしまいました。
 私、なんて謝ればいいのか」

褐色の水面に浮かぶ茶葉を見ながら、チャイは言い淀んでしまう。

「ぜーんぜん気にしないで。
 むしろオレ、ちょっと嬉しいもん」

予想外の言葉に、思わず青年のほうへ目を向けた。
彼は焚き火をぼんやりと眺めており、赤い光が精悍な横顔を照らし続けている。

「チャイちゃんがいつも持ってる杖、あのときわりと遠くに転がっててさ。
 簪がなかったら今頃、って思って……」

いつも歯切れよく話すシューイの語尾が、少しずつ小さくなっていく。
乙女は何も言わず、言葉の続きを待った。

「オレがあげた簪が、チャイちゃんを守ってくれたんだって考えるとね。
 なんというかその……あはは、うまく言えない!
 とにかくチャイちゃんが無事でよかった〜ってこと!」

何かを誤魔化すように笑った彼は、手にした紅茶を啜った。
こんな彼の姿を見るのは初めてで、自然とチャイの鼓動が早くなっていく。

ふたりの間には簪ひとつ。
たったそれだけの距離がもどかしくて、もっと彼に近づきたくて、チャイは簪を手に取る。

「これ、私のお守りにします。
 もう髪につけることはできないですけど、これから先もずっと」

旅が終わるまで、この想いは胸に秘めておくつもりだった。
でも少しだけ、ほんのひと雫だけ、それが零れ落ちることを許してほしい。

溢れ出した彼への想いで、深く深く溺れてしまう前に。
今以上のつながりを、彼に求めてしまう前に。

「……一生、大切にさせてください」

潤んでいくふたつの碧色。
小刻みに震える唇。

シューイは何も言わず、簪を愛おしそうに握る乙女を見つめた。

青年の喉仏が上下する。

気を抜けば、彼女の華奢な身体を強く抱き寄せてしまいそうで。
薄桃色に艶めく唇に、己のそれを押し付けてしまいそうで。

抑えきれなかった情炎が、熱い吐息となってゆるりと立ち昇る。
身を焦がすほどの慕情に、自分でも呆れてしまいそうになる。

シューイは目を伏せると、精一杯の笑顔を作ってみせた。

「うん、そうしてくれると嬉しいな」

彼はチャイから目を逸らすと、再び紅茶に口をつけた。
茶葉はいつしかたっぷりと湯を吸い込み、開ききって渋味が長い舌を覆う。

「今度、それを入れる袋か何か買いに行こうか。
 割れちゃってるし、そのままだと怪我しちゃうからさ」

「はい」

簪ひとつぶんだけ近づいた距離。

今度こそ吸い込んだ彼の香りに、チャイの胸はいっぱいになった。

「チャイちゃん、お茶っ葉ここに出しな?
 すんごい濃くなっちゃってるかも。
 ごめんね気づかなくて」

「あ、ほんとだ……」

「薄めようか?」

「大丈夫です、飲めます」

「わーお、大人〜」

チャイは熱い紅茶に軽く息を吹きかけ、恐る恐る口に含む。
予想以上の渋味が襲い、乙女の眉間にぎゅっと皺が寄った。

「う……」

「んふふ、前言撤回。おじさんに任せなさい」

湯の残った小鍋と空の器を取り出し、手を動かし始めるシューイ。
その様子を横目で見ながら、チャイは問いかけた。

「眠くなるまで、ここにいてもいいですか」

「もちろんだよ〜。
 ……はい、どーぞ!
 まだ濃かったら教えてね」

渡された紅茶に口をつければ、豊かな香りとともに温かさが広がる。

「身体は大丈夫?
 オレに付き合ってくれるのは嬉しいけど、無理はしちゃだめだよ」

「平気です。
 みなさんのおかげで元気になりましたから!」

「それはよかった。
 若いってすごいねぇ」

彼にはそう言ったものの、チャイの瞼は少しずつ重くなりつつあった。
回復しきっていない心身は、乙女を深い闇へと誘う。

それでもできるだけ長く、彼と時間を共にしたいと願ってしまう。

せめて木製の坏から黄金色の雫が、宝物にあしらわれた石と同じ色のそれが、滴り落ちるそのときまで。

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