◆キャラクター紹介◆
チャイ(僧侶♀)…20代前半の僧侶。清楚でふつうの性格。まもの使いに役割を取られつつあることに焦り、一度揉めたことがある。自分の中で考え込んでしまう癖があり、そんなとき仲間たちはそっとしておいてくれる。
アルス(勇者♂)…16歳の勇者。ちょっぴりわがままだが、時に負けず嫌い。年上の仲間たちに気を遣いながらも、勇者としての責任をしっかり果たすべく奮闘中。歳が近いため、チャイと仲が良い。チャイが唯一タメぐちで接する相手。
グロリア(戦士♀)…30代半ばの戦士。サバサバしていてぬけめがない。パーティ最年長のため、なにかと頼られることも多いが、本人はそれがうれしい様子。お菓子作りと料理が得意で、チャイとアルスを可愛がっている。
シューイ(まもの使い♂)…30代前半のまもの使い。ひょうきんなロマンチスト。パーティのムードメーカーだがスケベ野郎。よくぱふぱふ屋に行くため、チャイに睨まれている。だが実際は気遣いの鬼ともいえる性格で、ひょうきんな部分は仮面に近い。あまり自分の出自を話したがらない。
「チャイ、いったん退こう!
このままじゃ俺たちまでやられちまう!」
息も絶え絶えなアルスの言葉に、チャイは唇を噛み締めた。
バハラタの北西にある洞窟。
くろこしょう屋の孫娘がさらわれ、その婚約者が後を追って洞窟へ行ってしまったと聞き、アルスたちは彼らを救うべく最深部に乗り込んだ。
そこであのこそ泥集団、カンダタ一味と再会するなど、アルスたちの誰に予想できただろうか。
果たして交戦となり、剣戟の音が響き渡る。
アルスとグロリアは積極的に前へと踏み込み、シューイとチャイは後ろから彼らを援護した。
ロマリアで剣を交えたときに比べてアルスたちは格段に強くなっていたが、カンダタ一味もそれは同じだ。
以前とは明らかに違う彼らの戦い方に、アルスたちは舌を巻いた。
カンダタが、小柄なチャイの身の丈程はありそうな斧を大きく振り下ろす。
それを真正面から受けたグロリアの身体から、ぱっと紅い飛沫が舞った。
女戦士が倒れたことに気づく暇すら与えず、カンダタこぶんたちが後衛に襲いかかる。
シューイは大きなおたけびを上げ、相手の戦意を喪失させようとした。
しかしこぶんたちは、響き渡る大声など意にも介さず突っ込んでくる。
細身な剣の切っ先が、易々とシューイの身体を切り裂いた。
別のこぶんがチャイに狙いを定めたことに気づいたシューイは、彼女のもとへ向かおうとする。
だが、傷つき血を流す身体がそれを許してくれなかった。
とどめとばかりに背中に思い切り剣を突き立てられ、彼は断末魔を上げ息絶える。主人を失った角帽子ががらん、と音を立てて転がり、その様子にチャイは声にならない声を上げた。
あっという間に、ふたりが棺桶の住人へと姿を変える。
(どうしよう、どうしよう、どうすれば)
こぶんの攻撃から自分の身を守りながら、必死に頭を回転させていたチャイは、目の前にカンダタの斧が迫っていることに気づかなかった。振り下ろされる鋭い銀色がやけにゆっくり見えたと思った次の瞬間、ぐわんと響き渡った大きな音で彼女ははっとする。
目の前になびく菫色と、大きな背中。アルスが彼女の眼前に立ち、手にした盾でカンダタの攻撃を受け止めていた。
「チャイ、いったん退こう!
このままじゃ俺たちまでやられちまう!」
そう叫んだ少年の声は、潰れそうなほどに掠れている。
チャイを守ろうと広げた腕だけではなく、彼の身体のあちこちからとめどなく鮮血が溢れ、もう長くはもちそうもない。
唇を噛み締め、チャイはベホイミでアルスを回復させる。
そして彼と立ち位置を入れ替え、素早い詠唱ではげしい竜巻を巻き起こした。
カンダタ一味は、眼前にやってくる竜巻に思わず顔を覆う。
ようやく息が吸えるようになった頃、そこに侵入者たちの姿はなかった。
ただ薄闇を湛えた霧の残滓が、靄となって残るのみ。
「なるほど、リレミトねぇ。
やるじゃねぇか」
目出し帽の下で、四白眼がにやりと細められた。
命からがら、洞窟の外へと脱出したアルスたち。
チャイの蘇生により息を吹き返したグロリアやシューイとともに、ゆっくりと身体を休めるためにロマリアへと移動する。
その日の夜、彼らは宿屋に併設されている食堂で夕食をとることになった。
話題はもちろん、カンダタ一味の強さについてだ。
「くっそ、なんなんだよあいつら。
オレのおたけびにもビクともしねぇ」
玻璃のグラスに入った葡萄酒を飲み干し、シューイが苦い顔で言った。
「ここ最近は、あんたのおたけびとチャイのピオリムに助けられてたからね。
相手にする人数が多かったし、今回もその作戦でいければと思ったんだけど…」
ぐつぐつと泡を立てる橄欖油で煮込まれた海老を、軽く焼いたパンですくい上げながら、グロリアがため息をつく。
「ここで『きんのかんむり』を取り戻すために戦ったときには、わりと互角だったのになぁ」
褐色に煮詰められたソースがたっぷりとかかった分厚い肉を切り分けながら、アルスは隣に座った僧侶を横目で見た。
ロマリアに戻ってきてから、どうもチャイの様子がおかしい。
思えばアルスとチャイにとって、仲間が事切れる瞬間を見たのは先ほどの戦闘が初めてだ。
それに関してなにか思うことがあったのかと思った彼は、できるだけ優しい声色で言った。
「あんまり自分を追い詰めすぎないようにな。
チャイがいてくれたおかげで、俺たちはこうして戻ってこられたんだから」
「うん、ありがとう」
チャイは銀の匙に玉蜀黍のスープを絡ませながら、ぽつりと言った。
まだ、どこか重苦しい表情のまま。
皆が匙を進める間もチャイはどこか上の空で、アルスたちも「落ち着くまでは話しかけないほうがいいかな」と判断する。
しかし、給仕係から大きな角皿に入った甘味が提供される頃、
「あの」
とチャイが声を上げた。
大きな匙で甘味を取り分けようとしたシューイだったが、いったん手を引っ込め彼女の続きを待つ。
「私、賢者になるためにダーマに行きます。
だから、一緒に来てくれませんか」
予想外の人物から飛び出た予想外の提案に、アルスたちは驚きを隠せなかった。
現在、チャイは僧侶の職に就いている。
彼女自身も、貫頭衣に刻まれた聖職者の印を誇りに思っているし、回復呪文や蘇生呪文を扱える彼女はアルスたちにとっても重要な存在だ。
しかし彼女はアルスたちと旅をするようになってから、一度自分の存在について悩んたことがあった。
ロマリアでの一件を解決してから、何かと気を落としがちだったチャイ。
アルスたちは「何かあったのか」と心配していたのだが、バハラタにたどり着いた日に事件は起きた。
落ち込んでいたチャイを明るく励まそうとしたシューイに対し、彼女は激昂し声を荒げたのだ。
「シューイさんには、私の気持ちなんてわからないですよ!」
突然金切り声を上げた彼女に、シューイはもちろん、アルスやグロリアも目を見開いた。
重苦しい沈黙を破ったのは、銀色の眉を下げたまもの使いの声。
「……ごめん」
普段は明るい彼の、かすかに震えた声を聞くのは初めてのこと。
「違うんです、ごめんなさい、そんなつもりじゃ」
そのまま逃げるように、チャイは滞在していた宿屋を飛び出していってしまった。
僧侶である彼女よりも、まもの使いであるシューイのほうが回復が得意であること。
それが、悩みの原因だったようだ。
ふたりはその後、互いの正直な気持ちをしっかり伝え合うことができた。
チャイは、自分が普通を取り揃えたような人間であること。
だからこそ唯一、回復呪文に自信を持っていたこと。
しかしシューイが自分よりも強力な回復技を扱えることで、自分の存在意義がわからなくなったことを。
シューイは、チャイの援護にはいつも助けられていること、自分が呪文を一切扱えないからこそ、彼女を心から尊敬していることを。
こうして、無事に関係を修復することができたふたり。
チャイも、自分自身の僧侶としての役割に自信を持てるようになった。
そんな彼女が、自分から転職を提案するだなんて。
「私、さっきの戦いで何もできなかったのが悔しかったんです。
後ろから皆さんを援護するのは得意だけど、攻撃呪文が扱えたら…賢者の強さがあったら、きっと違う結果だったのかなって。
もっと…もっと強くなりたいんです。
お願いします」
そう言って頭を下げるチャイの声は、恐る恐るといった感じで、心なしか震えていた。
くろこしょう屋の主人は今も孫娘たちのことを思い、心を痛めて眠れない夜を過ごしていることだろう。
「どうか、タニアとグプタを助けてくれ」
彼の涙ながらの懇願を、アルスたちは快く受け入れた。
それなのに、ダーマへ行くことを優先するなど許されるだろうか。
一日二日で戻ってこられるような場所ではないし、もしかしたらその間に、囚われの恋人たちがひどい目に遭ってしまうかもしれない。
仲間たちに身勝手だと、優先順位が違うだろうと詰められても仕方のないこと。
もしそうなれば、チャイは自分ひとりでもダーマに旅立つ覚悟はできている。
「…チャイちゃん」
正面から降ってくるシューイの低い声に、チャイはぎゅっと目を閉じる。
「チャイちゃんがそうしたいって言うなら、オレは反対しない。
どこまでもついていくつもりだよ」
優しい声色でそう言われ、チャイは思わず顔を上げた。
「今の私たちじゃ、どう頑張ってもあいつらには敵いそうもないものね。
ダーマに行きがてら修行を積むっていうのも、いいかもしれないじゃない」
「闇雲に戦い続けるよりも、別の戦い方を見つけるのって大事だと思うんだ。
チャイが賢者になってくれたら、俺らも心強いよ!」
シューイの言葉を皮切りに、グロリアとアルスもチャイの方針に同意してくれる。
「一緒に頑張ろ」
アルスが目を細めて笑いかけてくる。
その温かさは、チャイの涙腺を刺激するにはじゅうぶんだった。
「ありがとうございます…!」
最後は言葉にならず、チャイは両手で顔を覆う。
「ほらっ、チャイちゃんには特別!
たくさん食べなさーい!」
シューイは、角皿の甘味を山盛りに取り分けるとチャイに手渡した。
彼女は涙を誤魔化すように、それを小さな匙ですくい口に含む。
香りの良い珈琲がたっぷり染み込んだスポンジと、わずに感じる爽やかな酸味。
そして表面を覆う粉末の苦さに、口元まで伝った涙の塩味が混ざる。
それがなんだか不思議な味で、チャイは鼻をすすりながらもクスリと笑ったのだった。
故郷ロマリアの教会で修行していた頃、チャイは同じ教会で過ごす友人たちから、こんな話を聞いたことがある。
「ここから大陸沿いにずーっと東に行ったところに、ダーマっていう神殿があるんだって。
そこで賢者になれるらしいよ」
回復や攻撃をはじめ、どんな呪文でも習得することができる、「神に選ばれし賢き者」。
ただし、賢者になるためには厳しい修行を積み、悟りを開く必要があるのだという。
悟りとはなんなのか、どのようにしたら悟りが開けるのか、当時のチャイには見当もつかなかった。
「私には縁の遠い話だな」
見た目にも性格にもこれといった特徴がないことを自覚していた彼女は、友人たちの話を軽く聞き流していた。
(それなのに今、こうして賢者になりたいと強く思うようになるなんて)
それはすべて、大切な仲間たちのため。
勇敢なアルスの、頼にりなるグロリアの、そして優しいシューイのため。
ひときわ豪奢な意匠の施された宝箱を前に、チャイはぐっ、と手に力を込める。
ダーマ神殿からさらに北へ歩を進めた先にある、ガルナの塔。
賢者になるために必要な「さとりのしょ」は、そこを踏破した者のみが手に入れられるらしい。
何度も魔物たちの襲撃に遭い、入り組んだ構造の塔に迷いながらも、チャイたちはとうとう最深部にたどり着いたのである。
震える手で宝箱を開ける彼女を、アルスたちは固唾をのんで見守った。
ぎぃ、と重い音を立てて宝箱が開かれる。
そこには、千を軽く超えようかというほどの紙が丁寧に束ねられた、不思議な紋様の表紙を持つ書物が鎮座していた。
「…これが、さとりのしょ」
ずっしりとした重みに、チャイは思わずほう、と息を漏らす。
「ずいぶん分厚いわね。
これ、全部読めってことなの?」
「神官サマの話によると、そういうことだったねぇ」
「ひとまずリレミトで脱出して、ダーマの宿屋に行こう。
俺たちも稽古したり装備を整えたり、やれることはあるはずだ」
アルスはそう言うと、リレミトの詠唱を始める。
「今日と明日の、2日間だけください。
それで全部読み終えますから」
ふわりと生まれ始めた紫色のもやは、チャイの言葉と同時にすぅっと姿を消した。
「…は?」
吃驚したアルスが、ぴたりと詠唱をやめてしまったからだ。
太陽の位置からして、あと数刻もあれば日が沈む。
2日間とは言うものの、実際には1日と半日程度しか、さとりのしょを読み込むために充てられる時間はない。
「そんなの無茶だ!」
「あのねぇ、ただ目を通すだけじゃダメなんでしょう?
集中力なんてずっと続くものじゃないんだし、無理せずゆっくり読んだほうがいいわ」
アルスもグロリアも、無茶な提案をした僧侶を口々になだめる。
「ちょっとシューイ、あんたからも何か言ってよ。
このままじゃチャイ、倒れちゃうわよ」
シューイは腕を組んで難しい顔になり、うーんと一度唸ったあとで、
「…チャイちゃんの読みたいペースで読めばいい。
ただ、無理は絶対にしないように。
約束してくれる?」
と、チャイの目線に合うよう身を屈めて言った。
いつものへらりとした表情とは違い、まるでこちらを射抜くような鋭い瞳。
「…はい。
約束、します」
チャイはふたつの蜂蜜色から、目を逸らすことができなかった。
ダーマ神殿にある宿屋に戻ってきてすぐ、チャイはさとりのしょの解読に取りかかった。
ガルナの塔を脱出する直前、シューイがチャイに約束させたことはふたつ。
ひとつめは、食事や睡眠を欠かさずとること。
ふたつめは、もし体調を崩した場合、直ちに仲間の誰かに相談すること。
「若い頃の無理ってね、歳をとってから響いてくるんだよ〜」
へらりとした笑顔で言うシューイに対し、グロリアがうんうんと頷いているのを見て、年若いアルスとチャイは顔を見合わせてしまった。
「それじゃあ、夕飯の時間になったら迎えに来るわ。
あんまり根を詰めすぎないように!」
女子部屋にひとりチャイを残し、グロリアは扉の向こうへと消えていった。
ありがとうございます、と声をかけ、チャイは分厚い書物に向き直る。
明日までとは言ったものの、果たしてそんなことが可能なのか。
正直に言って、チャイ自身もやり遂げる自信はない。
それでも、残された時間は決して多くはないのだ。
そろりと表紙を開くと、見覚えのある意匠が描かれた遊び紙が顔を出す。
僧侶の、チャイの貫頭衣にも刻まれているものだ。
「神に選ばれし者」と呼ばれるだけあり、賢者も僧侶と同じく、聖職のひとつなのだろう。
(私なんかが…本当に賢者になれるの?)
震える手が、額を伝う冷や汗が、先に進むことを許してくれない。
喉はからからに渇いているのに、いつの間にか口内に溜まった生唾を、チャイはごくりと飲み込んだ。
(それでも、やるしかない。
後戻りはできない)
頁を捲った瞬間、膨大な文字の波が燐灰石の瞳を襲った。
うねりを伴って荒れ狂うそれは、圧倒的な質量を以て乙女をさらい、深海へと引きずり込んでいく。
「チャイってば」
耳に飛び込んできた、聞き慣れた女剣士の声。
突如として意識を引っ張り上げられ、チャイはひゅっと息を吸い込んだ。
その拍子に咳き込んでしまい、グロリアは慌てて小さな背中をさする。
「びっくりさせちゃってごめんなさいね。
夕飯、食べに行きましょう」
ようやく呼吸が落ち着いてきて、脳にも酸素が行き渡ったことにより、チャイの意識もはっきりしてきた。
西の空に隠れかけていた太陽はいつの間にか姿を消し、かわりに三日月が東の空を見守っている。
「ずいぶん集中してたみたいね。
進捗のほうはどうかしら?」
「おかげさまで順調です!」
何をもって「順調」とするのかは、チャイ本人にもよくわからない。
実際のところ、さとりのしょの内容は「難解」という言葉で表すのも憚られるほどだ。
紙面を埋め尽くす文字と、脳を芯から揺らすような情報量。
生半可な気持ちで読み始めたならば、しばらく寝込んでしまうか、理解すらできず投げ出すかのどちらかだろう。
数刻もの間、集中力を極限まで高めてさとりのしょを読み解いていたチャイは、心身ともに正常とは言えない状態にあった。
(私のわがままで、ここまでついてきてもらったんだもの。
心配はかけられない)
グロリアとともに宿屋の廊下を歩くチャイの脚は、わずかに震えていた。
それからのチャイは食事や入浴、睡眠といった習慣的行動以外、すべての時間をさとりのしょの解読に充てた。
その習慣的行動に至っても、仲間の誰かが無理に引きずっていかなければ、彼女は机を離れようとしなかったほどである。
解読に取りかかって2日目、夕食を終えたチャイは女子部屋へは戻らず、宿屋の共有部分で過ごすことにした。
同室のグロリアは気にしなくていいと言ってくれたものの、想定していた以上に解読の進捗が芳しくない。
今夜は夜通し、さとりのしょと向き合う必要があるだろう。
旅を始めたばかりの頃、グロリアは宿屋で「灯りがあると寝付けない」と話したことがあった。
そのことを覚えていたからこそ、女子部屋で解読を進めるのは躊躇われたのである。
チャイが一夜を過ごす共有部分は、いくつか書棚と机が並んでおり、冒険者たちの語らいの場にもなっている。
しかし夜が更けていくにつれ、朝の早い旅人たちは少しずつ姿を消していく。
机は疎らに埋まっていたが、現在チャイの両隣には誰もいない状態だ。
最後の仕上げに取りかかるには、これ以上ないほど最適な環境だった。
ひとつ大きく深呼吸をして、チャイは分厚い紙の束をそっと持ち上げる。
利き手の親指に感じる重みが、彼女の心を前へと進ませた。
(まだ先は長いけれど、きっと大丈夫)
早鐘を打つ心臓を落ち着かせるように、そう言い聞かせる。
深い深い意識の海へと、乙女はまた飛び込んでいった。
「あ、これ?
こうしてお香を焚いて、服に匂いを移すんだ。
魔物って臆病な子もいるから、そういう子たちが安心できるような匂いなんだよ〜」
旅に出て1週間ほど経った頃だったか、チャイはまもの使いのシューイが、常に良い香りを纏っていることに気づいた。
香水の香りとも、洗濯や入浴に使う石鹸とも違った香りのそれは、嗅いでいると不思議とやすらぎをもたらしてくれる。
とある野営の夜、シューイが自らの衣服に何かを施しているのを見て、彼女は思い切って訳を尋ねた。
「ごめん、臭かったらやめるね?」
「いえ、そんな。
すごくいい匂いですから大丈夫ですよ!」
チャイはいつしか、シューイからふわりと香ってくるそれが大好きになった。
彼が傍を通るたび、並んで歩くたび、大きな背中で守ってくれるたび感じるその香り。
もっと近くで感じたい。
あの香りを胸いっぱいに吸い込む距離まで、彼と触れ合う距離まで近付きたい。
そう求めるようになったのは、いつの頃からだったか。
微睡みから覚めたチャイがまず感じたのは、口元から首周りにかけてを覆うやわらかな感触。そして、つい先程まで瞼の裏を包んでいた彼の香り。
「えっ」
一気に脳が覚醒し、チャイは思わず素っ頓狂な声を上げてしまう。
勢いよく身体を起こした拍子に、背後からばさり、と何かが落ちる音がした。
慌てて振り返ると、そこには菫色。
アルスの大きな外套だった。
それだけではなく、彼女の首には毛皮でできた襟巻がふわりと巻かれている。
(じゃあ、これって)
菫色の外套をそっと拾い上げたところで、チャイは自らの身を包む温かさの理由に気づく。
よく見ると机の上には焼き菓子と、その隣には小さな紙が置かれている。
「これを食べたらベッドで寝ること!」の文字は、菓子作りが得意な女剣士の、優しい筆跡と同じだった。
(みなさん…)
机の上には、閉じられたさとりのしょ。
適当な頁を開いて眺めてみるが、そこにある文字がチャイに牙を剥くことはない。
荒れ狂うような情報の波はいつしか凪となり、穏やかな風のように優しく彼女を包み込む。
さとりのしょの総てがチャイの身体の隅々まで行き渡り、力強い魔力の源となる。
成し遂げたのだ。
チャイひとりではなく、大切な仲間たちとともに。
「おはよ」
「ひゃっ!」
頭上から降ってきた低い声に、思わず飛び上がった。
まだ夢から覚めていないのか、と混乱する脳に、聞き心地の良い声が流れ込んでくる。
「そんなにびっくりされちゃうと、おじさん悲しいよぉ〜」
シューイだった。
戯けた調子ではいるが、いつもよりも声が低く掠れている。
一対一で話すときの、彼の特徴だ。
「ここにある本って面白いね。
読み始めたら止まらなくなって、ついつい夜更かししちゃった」
彼が読んでいたのは、ダーマ地方に伝わる神話や御伽噺をまとめたものだという。
一年に一度だけ会える恋人たちの話がロマンチックでさぁ、とシューイはうっとりした表情で言う。
しかし、彼はただ本を読むためにここにいたわけではない。
それが彼の優しさなのだと、チャイも気づいていた。
「これ、ありがとうございました」
細い肩をすっぽり覆う毛皮の襟巻きを外すと、それをシューイに返す。
「明日…というか今日、準備ができ次第ここを出ようと思います。
それまでは部屋でもうひと眠りさせてもらいますね」
垂れ目がちな目が細められ、ふにゃりとした愛らしい笑顔になる。
それを見たシューイの顔が綻んだ。
「…お疲れ様。
部屋まで送るよ」
いつもなら「いいです」と断るチャイだが、今回は素直に甘えることにする。
そうしたほうがいいと、ようやく気づいたからだ。
地平線が色を変えるまで、あと少し。
「もう一度、修行をし直す覚悟もおありじゃな?」
神官の言葉に、チャイは迷いなく「はい」と答えた。
彼女が僧侶としての人生を歩み始めて十余年。
自らの命が尽きるまで、聖職者の印が刻まれた貫頭衣を脱ぐことなどあり得ない。
そう思っていた。
(アルスくんが)
転職の儀式が行われる祭壇の下、長い階段を降りた先で、アルスたちが見守っている。
(グロリアさんが)
ちらりと振り返ると、皆温かい視線をこちらに向けてくれた。
シューイが口をぱくぱく、と何度か動かす。
つややかな薄い唇が形作ったのは、「がんばれ」の文字。
(シューイさんが…私をここまで導いてくれたから)
「ではチャイよ、賢者の気持ちになって祈るがよい」
神官の声に、チャイは再び前へと向き直る。
両手の指を互い違いに絡ませながら、そっと目を閉じた。
(私はもう、迷わない)
革手袋が、ぎゅっと音を立てる。
「おお神よ!
チャイが新たな職につくことを、なにとぞお許しください!」
高らかに響き渡る神官の声を聞き、ダーマ神殿を訪れていた旅人たちが次々と集まってくる。
「賢者だってよ」
「すごいわねぇ」
「賢者誕生の瞬間に立ち会えるなんて、夢にも思わなかったよ…」
旅人たちがざわつき始める中、天空から光が注ぎ、チャイの身体を包みこんだ。
それは徐々に眩さを増し、ひときわ強く煌めいたかと思うと、欠片を蒔き散らしながらおさまっていく。
「…よろしい。
今この瞬間から、チャイは賢者じゃ。
では征くがよい」
大きな青い外套に阻まれ、今ここに誕生した賢者の姿はよく見えない。
しかし、彼女が一礼の後に身を翻した瞬間、騒がしかった空間が水を打ったように静まり返る。
静寂の中で靴音を響かせる彼女は、その姿を見た者に畏怖すら抱かせるほどに美しく、神々しかったのだ。
空の青を吸い込んだかのような外套と、背中まで伸びた亜麻色の癖毛は、歩くたびにふわりと揺れ広がる。
それはまるで、大空を征く鳥の翼。
縫い目ひとつない純白の衣からは絹のような素肌が伸び、華奢な身体でありながらもか弱さを感じさせない。
ただ前のみを見据えるふたつの碧色は、視線を通わせることすら躊躇われるほどに澄み渡り、繊細な貴石のように輝く。
その場にいた誰もが、神に選ばれし聖女の凛とした美しさに圧倒されていた。
それはアルスたちとて例外ではなく、彼らは生まれ変わった仲間の姿に見惚れる。
僧侶の頃に顔を覗かせていた少女のようなあどけなさは、もう何処にもない。
夜更けに見せた愛らしい笑顔とは似ても似つかない彼女の表情に、シューイの鼓動が高まっていく。
それすらも心地良いと感じてしまうことに、青年はひどく戸惑った。
「お待たせしました」
いつの間にか目の前にやってきた賢者は、ぴょこんと頭を下げて笑う。
普段と変わらない彼女の仕草に、アルスたちの強張った身体はようやく解放されたのだった。
しかし、アルスもグロリアも、彼女にどんな言葉をかければ良いのかがよくわからない。
そんな中シューイは、まっすぐに碧色を見つめて言った。
「…チャイ」
彼が誰かを呼び捨てにすることなど、旅路を共にしてから初めてのこと。
声を上ずらせ、今度は乙女が身体を強張らせる番になる。
「はいっ」
アルスたちも、シューイの言葉をただ静かに待った。
「かっこいいよ、すごく」
ガルナの塔で見つめられたときとは違い、彼の視線に射抜くような鋭さは微塵もない。
揺らめく琥珀色から零れ落ちる熱を受け止めきれず、チャイは頬を朱く染め俯いた。
「それじゃ、バハラタに戻りましょうか。
まずは賢者としての戦い方に慣れないとね」
グロリアは仲間たちに声をかけると、一足先に神殿の外に向かって歩き出す。
アルスもちらちらと振り返りながらついていき、最後にシューイとチャイが小走りで合流した。
まだ頬の朱い乙女は、それを隠すようにグロリアの隣にやってくる。
「私、新しい呪文を使えるようになったんですよ!
メラって言って、火の玉を飛ばして…」
そう早口で捲し立てるチャイの背中を、女剣士はそっと叩く。
「さっそく実践しなきゃね。
ある程度慣れるまでは、私が庇ってあげるから安心して」
優しい微笑みに、チャイは元気よく答えた。
「はいっ!」
「うぬらもしつこいなぁ。
まーたのこのこと殴られに来たのか?」
大きな斧を構え、カンダタがこちらを見下ろしてくる。
アルスたちも各々武器を手に取り、まさに一触即発といった状況だ。
「お前ら、やっちまえ!」
頭領の命令に、鎧を纏ったこぶんたちが一斉に襲いかかる。
グロリアは誰よりも早く走り出すとカンダタの懐へと入り込み、力を込めて剣を叩きつける。
アルスもぐっと気合を込めると、大きく剣を振り下ろした。
その切っ先からは真空波が生み出され、カンダタの身体を深く切り裂いていく。
それだけで膝をつく大男ではないが、彼らが明らかに強くなっていることに驚きを隠せない。
後方にいたシューイたちには、こぶんたちの鋭い剣が迫る。
シューイは大きく息を吸い込み、前方に向かって火炎の息を吐き出した。
あっという間に鎧が灼熱を纏い、こぶんたちは壊れた玩具のような動きを繰り返す。
薄闇の洞窟には不釣り合いな純白が、未だ踊り狂うこぶんたちの前にひらりと翻る。
チャイの唇から複雑な詠唱が紡がれるやいなや、燐灰石の瞳が獰猛な光を放った。
「やああっ!」
閃光が迸る。
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