【HOD4】藍の空を染める紅

風呂上りの柔らかい爪に、硝子の鑢を滑らせる。
しゅっ、しゅっ、という音とともに、ケイトの桜色の爪は少しずつ形を変える。
仕事の邪魔にならないように、しかし短すぎない程度に整えたそれを見て、彼女は満足げに微笑んだ。

3年前のあの日。
大きな地震とともに、世界が足元から崩れ去った日。
大切な人の最期が、ケイトの心に消えない傷を作った。

はじめはただ、トップエージェントに対する憧れ。
ともに戦う中で、それが別の感情に変化するのは必然だったのかもしれない。

地下に閉じ込められていたときも、戦いが始まってからも。
彼はまだ新人だったケイトの心情を察し、不安を和らげてくれた。

世界の崩壊を目の当たりにしたとき、「希望を捨てるな」と励ましてくれた。
そのとき肩に触れた手の温かさが、今も胸を燻らせている。

ケイトが手に取ったのは、ネイル用のカラージェル。
よく見かけるネイルポリッシュとは違い、紫外線を用いたライトでジェルを固めるという珍しいものだ。
つい最近、雑誌か何かで紹介されて有名になったもので、長い時間乾燥させる必要がないため忙しいケイトにはありがたい。

刷毛が掬い取ったのは、艶やかな藍色。
爪に乗せると、とろりとしたジェルがゆっくりと広がっていく。

彼が着ていた、上着の色。
ケイトが追いかけていた、大きな背中の色。
すべての爪が、彼の色に染まっていく。

指先というのは、日常生活において頻繁に使う場所だ。
食事をするたび、パソコンのキーボードを叩くたび、爪に乗せた藍色はケイトの目に飛び込んでくる。

だからこそ彼女は、この色を選んだのだ。

「ハイスクールの女の子みたいね、これじゃあ」

どこか自嘲するように独りごちる。
けれど、その藍色を眺めれば、そんなことも忘れてしまうくらいに胸が締め付けられて。

__こんな気持ち、今さら抱いたって遅いのに。

どこを探しても二度と会えない彼のことを想いながら、ケイトはそっと彼の色に触れた。





細かな泡を身体に纏わせながら、ケイトは自身の爪をぼんやりと眺めた。

一週間もすればあちこち剥がれてしまうネイルポリッシュと違い、ジェルというのは二週間以上その美しさを保ってくれる。
ケイトがジェルを選んだ理由は、そこにあった。

けれど。

__そろそろかしらね。

二週間も伸ばした爪というのはケイトにとって煩わしいものである。

細かな傷がつき、輝きを失いかけている藍色。
その根本には、新しく伸びてきた爪が顔を覗かせている。

ジェルを落として、爪の手入れをし直さなければならない頃合いだった。

__でも、もう少し。もう少しだけ。

まだ、この色を纏っていたい。

しかしケイトは、気付いてしまった。
ジェルと爪との間に、わずかな隙間が空いてしまっているのを。
いわゆる、「リフト」という状態だ。

プロのネイリストが塗ったものなら、たった二週間程度でリフトすることはほとんどない。
しかし、ケイトは自己流でネイルをしているため、ジェルを乗せる前の下準備が不十分だったのだろう。
リフトしたまま放置すると、水分が隙間に入り込み爪に雑菌が繁殖するなど、様々なトラブルの原因になってしまう。

ケイトは浴槽から出て身体を拭うと、いつもより重い足取りで居間へと向かう。

この藍色に、彼の色に、別れを告げるときが来たのだ。

この二週間、美しく彩られた爪が目に入るたびにケイトは胸を高鳴らせた。

まるで、彼がそこにいるようで。
忙しい日々の中で忘れていた愛しさを、思い出すようで。

けれど、いつまでもこのままというわけにはいかないのだ。
この藍色も、自分の気持ちも。

すべての色が取り払われ、裸の爪に戻ったとき、彼女の視界が涙で揺れた。

ネイルを落とす、ただそれだけのことなのに。
彼との二度目の別れを迎えてしまったようで。

「ジェームズ……」

愛しい藍色の主、かつてともに戦ったパートナーの名を呼ぶ。
色のない爪に、温かな雫がぽたりと跳ねた。





AMSヨーロッパ支局の近くにある、落ち着いた雰囲気のカフェ。
世界崩壊に伴い一度は営業を停止したものの、一年ほど前からこうしてまたお茶とお菓子を楽しめるようになった。

真っ白なセーターに身を包み、ケイトはお気に入りの紅茶を口に含む。

『あれ、今日はマニキュア塗ってるんだ』

午前中、珍しくヨーロッパ支局にライアンが訪ねてきた。
ジェームズと血を分けた弟である彼は、至るところに兄の面影を感じる。

『ちょっとね。たまにはこういうのもいいかと思って』

『前にケイトが着てたジャケットと同じ色だな。似合ってるよ』

次にケイトが選んだのは、深紅。

自分の好きな色でもあり、ジェームズとともに戦っていたときに着ていた上着の色。

__自分の気持ちにけじめをつけるまで、あの藍色は塗らない。そう決めたの。

爪に輝く紅が、前を向く勇気をくれる。
藍色の夜空を、曙光が紅く塗り替えていくように。

そのとき、ケイトの携帯端末が一通の報せを受信する。

『すぐさま準備に入られたし コード・Rに動きあり』

残りの紅茶を飲み干し、立ち上がる。
今頃、ライアンにも同じ報せが届いているだろう。





髪を結い上げ、爪と同じ深紅のドレスを纏いながら思う。

まだ、この想いの灯火を消すことはできないかもしれない。
否、それは烙印のように、胸に刻み込まれてしまったのかもしれない。

それでも、前に進むことを決めた。
彼が、それを望んでいたから。

黒いハイヒールに足を滑らせ、歩き出す。

きっと、長い夜になるだろう。
けれど、必ず夜明けはくる。

そう信じて。







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