【HOD3】いつかあなたを殺す日まで

足を踏み出すたびに感じる、自分が自分ではなくなっていく感覚。
徐々に霞んでいく、リサの華奢な背中。

身体に現れた変化のひとつひとつが、ダニエルの心を侵食する。
満天の星空とは裏腹に、眼鏡の奥に潜む碧色は濁っていた。

「どうしたの?」

振り返ったリサの、金の睫毛に縁取られた青灰色。
なんと美しいことか。

そう、今のダニエルにとっては激しい憎悪を抱くほどに。

「私は……自分に課せられた使命を全て全うしたつもりだ……」

やっとのことで絞り出した声は、哀れなほどに震えている。
それにすら苛立ちを覚え、ダニエルはリサを睨めつけた。

「教えてくれ……これからどうやって生きていけばいい?」

胸を掻き毟りたくなるようなこの不快感を、どこに吐き出せばいいのかわからなかった。
その捌け口として彼が選んだのは、いっそ殺めてしまいたいほどに眩しく輝く、勇敢な女性。

しかし彼女は、呆れたようにダニエルを見るだけであった。

「何弱気なこと言ってるの?あなたの未来はここから輝くのよ」

__黙れ。黙れ、黙れ、黙れ!

先ほどまでは心地よく感じていたリサの声は、今やただの騒音にしか過ぎなかった。

身体中の血が騒ぐ。
自分の中の何かが、彼女の命を奪えと命令している。

奥深くから迫り上がってくるような殺戮衝動。
とっさに頭を掻き毟り、それに抗う。

強く閉じていた目蓋を開くと、そこには心配そうなリサがいる。
獣のような獰猛さをたたえたダニエルの……否、もはや彼ではない『何か』の瞳が、その美しい顔を捉えた。

「私に輝く未来などあるだろうか……」

冷たい唇から発せられる声は、人間のものとは思えないほど悍しいものだった。
獲物を逃すまいと開かれた瞳孔に、リサの恐怖に歪んだ顔が映る。

直後に響き渡る悲鳴。
だが、それは喉元に食い込んだ凶刃により、虚しくも残酷に掻き消された。





目を覚ますと、見えたのは闇に覆われた天井。
ここが自室で、先ほどの光景が夢だったのだと気づくまでに、ダニエルは少々時間を要した。

__なんて夢だ……。

額に浮かんだ玉のような汗を拭い、深く息を吸い込む。
枕元の時計に目をやると、まだまだ夜は長い。
だが、目を閉じたら先ほどの続きが見えてしまいそうで、ダニエルはそっと身体を起こした。

幼い頃、不治の病に臥せっていたダニエル。
生まれて二十余年の歳月が過ぎた今も、彼の心臓は生命を維持し続けている。

彼の父であるロイ・キュリアンが、その精神を壊してまで開発したワクチンのおかげだ。

だがそれと引き換えに、彼の身体にはあの化物たちと同じ遺伝子が注入されることとなった。

__あの夢は、私が辿ったかもしれない末路のひとつ。いつかこの手で、リサを……。

EFI研究所を出て、半年ほどローガン一家とともに暮らすことになったダニエル。
その間、彼は心身ともに傷を負ったトーマスの看病を引き受けていた。

その後トーマスは快方に向かったため、ダニエルはローガン一家が住む家の近くに部屋を借りてひとり暮らしを始めた。
しかし、それからも月に幾度かは、リサが心配して様子を見に来てくれている。

と言っても最近は、もっぱらリサの話し相手になっているようなものだが。

それでもダニエルは、リサと過ごす時間が嫌いではなかった。
軽く部屋を片付けて、リサの好きなお菓子と飲み物を用意して待つ。
その時間すら楽しくて、愛おしくて仕方がなかった。

それなのにどうして、今まで気づかなかったのだろう。
自分がいつか、リサを危険な目に遭わせてしまうかもしれないということに。

自分自身が、リサの命を奪ってしまうかもしれないということに。

だが生憎、寝る前にリサから連絡が入った。

『明日って仕事休みよね?大学が終わったら、そっちに顔を出してもいい?』

ダニエルはふたつ返事で了承したが、今更ながらにそのことを後悔した。

__もし、リサがいるときにああなってしまったら……。

今、あの夢で感じたような身体の不快感はない。
だからといって大丈夫だ、という保証があるわけでもない。

その後どれだけ強く目を閉じても、ダニエルが眠りに落ちることは叶わなかった。





『すまないが、急に体調を崩してしまった。だから今日は会えない』

講義終わり、携帯端末を見たリサの顔が曇る。

__せっかく、今日は新しく買った服を着てきたのに。

まぁそんなこと言ってもしょうがないんだけど、とリサは足早に歩き出す。

思えば、ダニエルが体調不良を訴えるなんて滅多にないことだ。
少なくともリサとともに生活していたときは、そのようなことはなかったように思う。

__ひとりで大丈夫なのかしら。もし高熱でうなされていたら……。

ダニエルは普段料理をすることがなく、そのためかそもそも冷蔵庫を持っていない。
体調が悪いなら買い物にも行けないだろうし、食品のストックだってほとんどないはずだ。

寝台からまったく動けないとしたら、最悪の場合脱水症状や栄養不足による不調を引き起こす可能性だってある。

そう考え、リサは慣れた手つきでメールを打つ。

『ひとりで大丈夫?行きがけになにか買ってお見舞いに行くわ。30分くらいでそっちに着くから』





「……見舞いはいらないとメールを入れたはずだが」

「あらそう?ごめんなさい、見落としてたかも。でも安心したわ、元気そうで」

はい、とリサに差し出された買い物袋を、ダニエルは躊躇しながらも受け取る。

水のペットボトルが数本。
それとカットフルーツ、カロリーバー、チューブゼリー。
どれも片手でつまめるものばかりだった。

「どういうのがいいかわからなかったから、ママに電話で聞いたの」

そう言ってにっこりと笑うリサ。
その眩しい笑顔に、ダニエルの胸は締め付けられる。

だからこそ、次の言葉を紡ぐのに、ダニエルは相当な努力を要した。

「……ありがとう。だがリサ、悪いが……もう君とは、会えない」

「え……」

「君のお父さんやお母さんにも会えなくなる。世話になったと、よろしく伝えておいてくれ」

リサの笑顔は消え、父に似た太めの眉が下がっていく。

「引っ越しをするの?」

「……そういうわけでは、ないが」

「もしかして体調が悪いっていうのも嘘で、単に私に会いたくないから?」

本心を言い当てられ、ダニエルは何も言えなくなってしまう。
するとリサは、ずかずかとリビングへ向かって歩き出した。

「お、おい……リサ!」

「納得できないわ。ハッキリ説明してもらえるまで帰らないから」

このままでは、万が一のときにリサが逃げられなくなる。
そう思ったダニエルは、彼女の手首を強く掴んだ。

「だめだ。すぐに逃げてくれ。私は君を……殺してしまうかもしれない」

「……どういうこと?」





話し終えたところでようやく、ダニエルはリサの手首を掴んだままだったことを思い出す。

慌てて離すと、リサの白い肌に赤い手形がついていた。

「……すまない」

「いいのよ、これくらい。でも……」

リサはダニエルの身体を見回す。
肌も、髪も、そして先ほどまでリサの肌に触れていた温もりも。

どこにでもいる、ひとりの男性だ。
彼が異形と化す可能性を有しているなんて、信じられなかった。

「今はただ、夢で済んでいるかもしれない。だがこの先、そうならないという保証はどこにもないんだ。だから、これ以上君と過ごすわけにはいかない。君を殺すなんて……そんなこと、したくない」

「何弱気なこと言ってるの?」

ダニエルの心臓が、大きな音を立てて跳ねた。

__同じだ。あの夢と……。

「あなたの未来はここから輝くのよ」

やめろ、やめてくれ。
自分が次に言葉を紡げば、リサは……。

ダニエルは、その目をきつく閉じた。
それは彼にできる、精一杯の現実逃避。

だが、自身の頬に温かな両手が添えられる。
思わず目蓋を開くと、そこには柔らかく笑うリサがいた。

「もしあなたが化物になったそのときは……私があなたを殺してあげる」

「……リサ」

震えた声は、間違いなく自分自身のものだ。
あの悍しい、地の底から響くようなものではない。

「だから、私のそばにいて。これからずっと、ずっとよ。そうじゃないと、いざというときに殺せないでしょう?……私から、離れないで」

迷いのないリサの言葉に、恐怖で凍えていた心が熔かされていくのを感じる。
夢で感じた殺戮衝動とは違う温かな、けれど胸を掻き毟りたくなるような感情が、ダニエルの胸に迫り上がってくる。

リサがいてくれれば、あの夢の続きは見なくて済むのだ。
そう気づいたとき、ダニエルの視界が揺れた。

それでも彼は、リサを見つめ続ける。

愛しい人を。
こんな自分とともに生きることを選んでくれた、かけがえのない存在を。

ダニエルは硬く握っていた掌を解き、華奢な肩に触れた。

リサの両手に、ぐっと力が籠る。
滲んだ視界の中で、リサの顔が近づいてくるのが見えた。





「本当によかったのか」

「大丈夫よ。あなたの看病をするから泊まりになるかもって、もともとママには伝えてあったし」

リサは軽く服装を整えて答える。
ミスター・ローガンになんと説明すれば……とぶつぶつ呟いているダニエルに、彼女はふっと笑った。

「ちゃんとパパを説得しなきゃね。でもきっと、パパも納得してくれると思うわ」

「そうだといいな。私は、リサ以外に殺されるつもりはないから」

「ま、楽しみにはしないでいてよね」

あの日、EFI研究所でリサと初めて会った日。
「キュリアン邸事件」を解決した元トップエージェントの娘は、自分とは何もかもが対照的に見えた。

研究所を出て、初めて外の世界に触れ……リサのいろいろな顔を知った。
その全てがダニエルにとっては新鮮で、自分でも気づかぬうちに彼女に惹かれていた。

そんな彼女が選んだのは、他でもないダニエルの隣。
彼女が夢でも現実でも言っていたように、自分の未来はここから輝くのだろう。

リサがいてくれる限り、ずっと。

「私に、こんなにも輝く未来があったんだな」

「これから何十年と先、「結局最期まで殺さなかったわね」なんて笑い合えるわよ、私たちなら」







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