【終わセラ】一緒に

ざくざく、と、雪を踏みしめる足音が響く。
シノアたちと合流すべく、歩みを進めていた優一郎だったが、ふと後ろを歩くミカエラの異変に気がついた。

「……苦しいか?」

「………」

答えはない。

けれど、初めて優一郎の血を飲んで以来、ミカエラは血を口にしていないのだ。
そろそろ、限界も近いだろう。
その証拠に、彼の息は荒くなり、瞳の焦点も定まっていない。

よく、こうなってしまうまで我慢したものだと、優一郎は呆れた。

「……苦しいなら、ちゃんと言えよ。ほら、こっち来い」

ミカエラの手を引いて、優一郎は歩き出す。
そして、建物の陰に隠れるようにして身を潜めた。

もし、ミカエラが優一郎の血を吸っているのを、ほかの軍の人間に見られてしまったら。
そのとき、ふたりはまた離れ離れになってしまうかもしれない。

そのため、優一郎は、ミカエラに血を吸わせるときは隠れる必要があるだろうと考えたのだ。

「けっこう歩いたし、少し休憩するか」

「……うん」

そう言って、ふたりは腰を下ろした。
頭上に張り出した屋根のおかげで、地面に雪は積もっていない。

「……あのさ、ミカ。おまえ、まだ俺の血を吸うの躊躇ってんのか?」

優一郎が、呆れたように言った。

ミカエラは優一郎の血を吸い、完全な吸血鬼となった。
その直前に、ふたりはほとんど喧嘩をする勢いで、吸う吸わないの押し問答を繰り広げたのである。
優一郎の血を吸うことに対して、ミカエラはすっかり振り切ったのだと思っていたが。

「優ちゃんの血を吸うなんて、少し前まで僕には考えられなかった。今でも、あのとき君の血を吸ったのは……夢なんじゃないかって思うんだ」

ずっと抑えてきた吸血衝動に、ミカエラの身体は侵されていた。
抑えなきゃ、我慢しなきゃ。人間の血を吸ってはいけない。その考えは、彼の中に、未だこびりついていた。

「ばーか、夢なわけねーだろ。その証拠に、おまえはこうして生きてんだ」

「……でも」

4年前、脱出を試みたときに目にした光景が、今でも鮮明に思い出される。
ミカエラたちの行く手を阻んだ吸血鬼は、子供たちの血を一瞬にして吸い上げ、その命を奪ったのだ。

血液を失うこと、それは一歩間違えれば死に直結する。

もしも今、優一郎の血を、欲を満たすほどに飲んでしまったら。
彼の身体は悲鳴を上げ、動かなくなってしまうかもしれない。

ミカエラは、それが怖かった。

言葉を紡ぐことができず、黙っているミカエラの頬を、優一郎は両手で挟んだ。
そして、半ば無理やり、こちらへと向けさせる。

「おまえは今、俺の血を飲まないと死んじまうんだろ。苦しいんだったら、血が飲みたいんだったら、そうやって言えよ。俺なら大丈夫だから。……おまえに血を吸われたくらいじゃ、俺は死なない」

まるで自分の考えを読まれたかのような言葉に、ミカエラは驚いた。

「なんで……」

「おまえの考えてることなんか、俺にはすぐ分かんの」

優一郎は、得意げに言った。

こちらをまっすぐ見つめる緑瑪瑙の瞳に、ミカエラの心が融かされていく。
幼い頃から彼を映してきたその瞳は、ミカエラにとって、なによりも美しい宝石に見えた。

「……うん、ありがとう」

ミカエラがそう言うと、優一郎は優しく笑み、自分の服に手をかけた。
ボタンをひとつずつ外し、衣をぐいっ、と引っ張って、首筋を露わにする。

「……ほら」

優一郎の声を合図に、ミカエラは彼の首元に牙を近づけた。
その牙が、やわらかな肌に食い込もうとした瞬間、ふとミカエラの動きが止まる。

「……ミカ? っ……!?」

優一郎が呼びかけるとほとんど同時に、首筋にやわらかく温かな感触が押し当てられる。
それは、ミカエラの唇。

彼は、つつ、と自分の唇を優一郎の鎖骨へと滑らせた。
予想していなかった彼の行為に、優一郎は目を白黒させる。

そこから唇が離れたかと思うと、不意に、熱くぬるりとしたものが首筋を伝った。

駆け抜けた衝撃が、優一郎の身体をびくりと震わせる。

その衝撃の余波は、熱い吐息となって漏れ出した。

「……っ、は」

そしてようやく、自らの首元に這わされているのが、ミカエラの舌だと気づく。

「え、ちょ……な、ミカ、おま、何して」

優一郎は、やっとのことで言葉を絞り出した。
もはや、意味を成していない。

ミカエラがゆっくりと顔を上げ、少々申し訳なさそうな表情で言った。

「ごめん、痛かった?」

優一郎は、なんとか荒い息を整える。

「いや、痛くはねーけど……なに今の」

「……ほら、前に優ちゃんの血を吸ったとき、急に噛みついたでしょ。あのとき、優ちゃん……痛そうだったから」

血に飢えたミカエラを助けるために、優一郎は自らの腕を傷つけ、血を差し出した。
しかしミカエラは、彼の首元に噛みつき、そこから血を吸ったのだ。

そのとき、優一郎が苦しそうな呻き声を上げたのを、ミカエラは聞き逃さなかった。

「だから……こうしたら、痛くないかなって」

そう言って、再び舌を滑らせる。

(ミカ……こんな時でも、俺のこと)

優一郎は、両腕でミカエラをそっと包み込んだ。

本当は、早く血を吸いたくて仕方ないはずなのに。
苦しいはずなのに。

ミカエラはいつも、優一郎のことを最優先にしてしまうのだ。

(……まったく、しょうがねえな)

優一郎は、そのことを素直に嬉しいと思った。

片方の手で、ミカエラの頭をそっと撫でる。
さらさらとした金髪が、手袋越しに指をくすぐった。

「優ちゃん」

ふいに、ミカエラが優一郎の名を呼んだ。

「……ん」

「優ちゃん」

どうした、と尋ねても、彼は答えない。
そのかわりに、何度も何度も、彼の名を呼ぶ。

「優ちゃん」

「……ミカ」

「優ちゃん……っ」

優一郎は、両腕にさらに力を込めて、ミカエラを強く抱きしめる。
すると、ごめんね、と小さく掠れた声が聞こえた。

そして、濡れた首筋に、牙が潜り込む。

ちくりと痛みを感じ、優一郎はわずかに顔を歪めた。
しかし、前に血を吸われたときに比べると、その痛みはずっと小さかった。

奥まで食い込んだ牙をそっと抜くと、そこから紅い血が、じわりと染み出す。
ぺろりと舌先で舐めると、それはたちまち甘美な蜜へと姿を変えた。

渇いた身体が血を欲して、夢中で吸いつく。
飲み込むことのできなかった紅が、優一郎の胸元にとろりと伝った。

どれぐらい、そうしていただろうか。
はあ、と息を吐き、ミカエラは顔を上げた。

胸元に流れ落ちた血を、舐め取る。
最後に、うっすらと鬱血痕が刻まれた優一郎の首筋を、舌先でそっと撫でた。

「……もういいよ。ごめんね、優ちゃん」

ミカエラがそう言うと、優一郎は彼の顎に手を沿わせ、ぐいっと上を向かせた。
そして、夕焼けのような赤い瞳を、覗き込む。

「謝らなくてもいいの。べつに、悪いことしてるわけじゃねーんだから」

この透き通った緑色に見つめられると、すべてを彼に包まれているような感覚になる。

「……ふふ、そうだね。それじゃあ、ごちそうさま」

おう、と優一郎は笑うと、服のボタンをとめた。

「じゃあ……行くか」

「すぐに動いて大丈夫なの?」

「ああ。シノアたちが心配なんだ……だから、はやく行かないと」

大鎌を手にした、紫髪の女。彼女が、優一郎が言う「シノア」なのだろうか。
彼の心の中にはすでに別の人がいる、そのことに、ミカエラは少しだけ寂しさを感じた。

優ちゃんを助けなきゃ。ミカエラは今までずっと、彼への想いだけを、自分の行動の糧としてきた。
彼だけが、自分のすべてだった。

けれど。

(助けられているのは、僕の方なのかもしれないな)

優一郎とともにゆっくりと立ち上がりながら、ミカエラはそう思った。
優一郎だけでなく、彼の新しい家族にも、自分は助けられているのかもしれない。

勇んで歩く優一郎の背中を見つめ、ミカエラも歩を進める。
そして、彼の後ろではなく、隣へと並んだ。

彼の後ろをついていくのではなく、隣に立って、一緒に道を開いていきたい。

銀色に降り積もった雪が、太陽の光を反射してきらめく。
その光が、ふたつの人影を明るく照らした。







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